ゴキブリと不安と苦しみ
ゴキブリは気持ち悪い。これは真理であり、我々はゴキブリをみつけたら悲鳴をあげ、もし女子ならば、となりの男子の腕につかまらなければならない。
かつては、俺もそのルールの中で生きていた一人であった。
小学校3年になった頃、クラスに転入生(A)がやってきた。
彼は、うちの学校よりちょっとワルい小学校からの、マセた感性をもたらした。加えて、爬虫類の分野に博学だった。動物好きだった俺は彼にイッパツで心酔し、彼と同じように博学になりたいと、毎日爬虫類図鑑をひらいて目を皿にし、親友になりたいと強く願った。
そんなある日のこと、昼休みの教室で、クロゴキブリが現れた。
ルールはルールである。クラスの誰もが、いつもは先生の言うことを聞かないいたずらっ子のKも、女子みんな、ルールの執行者たる担任も、もちろん俺も、そのルールにのっとって、
「ギャーゴキブリだー!!(泣)」
と叫び声をあげ、慌てふためいた。
そこへAが通りがった。阿鼻叫喚が飛び交う戦場のなかを、のそのそと人々をかき分け、ゴキブリの前に立った。
「なんてことないだろ、ただのゴキちゃんじゃないか」
素手でそっとすくい上げて、両手で包んだのち、教室の窓からそっとそのゴキブリを解放したのである。
・・・ゴキブリって、触れるんだな(悟り)
俺は、その日から、ゴキブリを素手で触れるようになったのだ。ほかにも何人か、触れるようになった奴がいた。
他の奴らはモーセの願いを退けたファラオの如く、イエス・キリストが現れた際のユダヤの律法学者の如く、心をかたくなにして騒ぎつづけた。
似た話だが、「女子が虫を怖がること」はこの世界のお決まりのひとつであることはいうまでもない。しかし、思い出してもみてくださいよ。幼稚園のとき、女の子も一緒にイモムシやダンゴムシを触っていたじゃあございませんか。
しかし、小学校高学年になったくらいから、女子で群れ始めるようになってから、突然触れなくなる。気持ち悪くて叫ばずにはいられない、それをみてしまったら男の子の腕にでもつかまりたくなっちゃう存在になる。
これは壮大なる社会教育である。
俺たち日本人が(北海道は違うようだが)、この世に生まれて初めてゴキブリをみるとき、多分母親が隣にいる。母親は「キモチワルッ」と叫ぶ。
女子が、女であることを自覚し、その集団に入っていったとき、先輩女たちは虫をみて「キモチワルッ」と叫ぶ。
この繰り返しで、我々はゴキブリを、虫をキモいと思っていくのだろう。
疑問がある。この壮大な社会教育に。
生きている苦しみが、なぜ苦しいか。不安は、なぜ不安なのかが、わからない。
なにも苦しくなくたっていいし、不安である必要などない。
アメーバかミジンコのように漂って、ヘラヘラしたまま死んでいったってなにも悪いことなんてない気がするのだが、苦しまなければ、不安にならなければ気が済まないかのように生きている自分の脳ミソが、わからない。
おそらく、この社会教育の連鎖によって、俺は自分の将来や日本の行く末を憂うることを知り、偏差値や社会的地位が低いことを嘆き苦しむことを教わった。
しかし、なんたって俺がそんなことを苦しまなければいかんのか。苦しみはなぜ苦しみなのか。
俺はひょっとして、取り逃したゴキブリが気持ち悪くて夜も寝られない女のように、人生を苦しんでいまいか。
あと一息で自由になれそうなどと思う。