オクラ・ししとう

夜中に考えるああでもないこうでもないを貴方に❤️

【懺悔】中学校時代の反省・先生に謝りたいこと

やっぱりうまくまとまらないので、また箇条書きにさせてもらう。

 

・中学2年の夜、好きな女の子に口が滑って告白してしまった(メールで)。何往復か迷った挙句、帰ってきた答えは「本気ならいいよ」だった。そんなわけで晴れてリア充。これからよろしくね、おやすみとメールを送り終え、当時入院していた俺は舞い上がって慈恵病院の窓の景色を見る。

しばらく考えてみると、付き合うとは何をすればいいのかわからない。なんで付き合ってるのにデートしないんだろうね、と以前その子と話したことは棚にあげた。デートをしなければならないのか、デートとは、学校の外で、会わなければならないのか。考えると気が重くなった。しんどくなった。俺には彼氏はムリだと思った。

次の日、その子に「昨日の告白の件なんだけど、あれキャンセルでよろしく」と送信した。

 

合唱コンクール、クラスメイト皆で毎日朝練をやることに決めて、金賞に向けて頑張っていた。いじけ、ひねくれていた俺は意地を張って一度も朝練には参加しなかったし、授業内練習でもまともな姿勢で臨まなかった(ホームベースのわきで反抗的姿勢をとり続けていたが、授業中の中学生にできることなど何もなく、滑稽)。

白状しよう。合唱曲の山場のところを、リハーサルまた本番で聞いたときは、正直鳥肌がたつほど感動していた。

合唱コンクール本番、惜しくも金賞を逃した我がクラスのみんなは涙を流しながら、でも悔いはないよく頑張ったと喜び合っていた。

俺はそれを見て、胸になにかがこみ上げていたのだが、冷たい僻み根性でそれを抑し、彼らを嘲笑し、馬鹿どもの戯れだと言って見せた。そうした態度で自分を保っていたが、お互いに熱いものが通っているクラスメイトたちの横で一人片意地張っている自分は滑稽であり、また当時確かに「寂しい」と感じていたことは今、認めよう。

 

・卒業式にも絶対に行きたくない、と思っていた。

この晴れ舞台に行かない、という選択をとってみせて、有終の美を飾ろうとする先生クラスメイト諸君をしらけさせることで、怒りをぶつけようとしていた。

とにかくムカついており、そしてそれをどう表現すればいいのかわからなかったのだ。

両親に引き止められ、衝突した挙句、渋々行く羽目になった。当時の気持ちを細かく思い出すと、やはり引き止めて欲しかっただろうし、実際行かなかったら本当に惨めだったろう。

 

・卒業式の数日前、学校の授業のなかで、両親への感謝の手紙を書く、という取り組みがあった。何を書いたか忘れたが、一応真面目に書いた覚えがある。書いたものは皆、先生に提出した。両親に渡すべき日に、俺は学校を休んだ。

卒業式後、我が家の郵便受けにその手紙が入っていた。担任の先生の手書きのメッセージが同封されていた。

「授業日にお渡しできませんでしたが、〇〇(俺の名前)くんが、一生懸命書いたものですので、読んであげてください!」みたいなメッセージだったと思う。両親に宛てたものだった。

そのときの感情は自分でもしっかりと把握できなかった。ともかく「クソが」と思ってその手紙を一緒にくしゃくしゃにして、近所のゴミ箱に捨てた。

 

・中学校の内申書はかなりひどい。9教科で25だった。テストでは高得点をとっていたのに、である。納得のいっていない父が、学校に飛び込み、問合せしようと支度をはじめていた。

そうなれば、今までの俺の散々な授業態度、反抗的なふるまい、家庭連絡に及んでいなかった問題行動等々すベてバレてしまうことになる。それは困ると、焦った。

そこで俺がどうしたか。

副担任でよく話相手になってくださる国語の先生がいた。俺の腕のアザに真っ先に気付いたのもその先生だったし、授業中に『竜馬がゆく』を読んでいた俺を叱りつつも、「次は『坂の上の雲』をよむといい」などと、懐のふかい一面があった。

その先生が俺に言った些末なひとことを取り上げ、どうにかこうにか、その先生に罪をかぶせた。どのような流れだったか、記憶が詳らかでないが、ともかくそれは父が学校に乗り込まない理由になった。

その代わり、父は電話越しで、その先生への不信感と怒りを教頭先生にぶつけて、電話をぶっちぎった。本人に伝わらなかったはずはなかろう。

次の日は、学年でのプラネタリウム見学会だった。施設の入り口へ行くと、たまたまその先生がいた。「〇〇、お前元気か」ニヤリと、その先生が俺に言った。俺は、苦い顔をしてから特になにか返事をするでもなく立ち去った。

 

・「教師なんてクソみたいな職業だ。社会に出たこともないくせに、ろくな大学もでてねえのに俺たちに何が教えられるんだ。教員には、教員にだけはなりたくねえな。」と、先生に聞こえるように、よく教室で叫んでいた。

今になってみると、辛いときなどに中学校の生活を思い出すし、通知表に一行だけあった褒め言葉などもふと頭をよぎる。

 

・まとめると↓

中学校の頃は、父の大病がまだピークを終えていなかったのに加え、成績評価ではまともな成績が得られず、父は途中から俺の通知表を見ることを拒否するようになった。

学校と家庭両方でいい感じでなく、抜毛症により頭のテッペンがハゲ上がったりしていた。

学校の成績評価システムや教育システムは確かに完全ではなく、俺が息ぐるしくなった一因ではある。

しかし、そのことで学校関係者全員を憎み、小馬鹿にし、意地を張る姿勢をとり、尚且つ最近までその気持ちが拭えなかったことは明白に間違いであり、自分で受け止めきれずにきてしまったのは俺の「弱さ」だといえる。

そうした弱い精神的態度を改められなかった俺は、高校に進んでからも、まあまあつまづき、親と激突したり、退学騒ぎを起こしたりする。大学5年の今もいろいろうまくいっておらず、内省している現状である。

先生方がお元気なら、もう一度お会いして、今までの非礼を詫びたり、近況を聞いたりしたいなどと、今さら思ってしまう自分がいる。