オクラ・ししとう

夜中に考えるああでもないこうでもないを貴方に❤️

それぞれの地獄

最近よく、お友達の就活生や一足先に社会に出ている新卒同期と話す悲観的なトピックがある。

「苦しい人生で、夢物語を信じたり、ひととき気の許せる仲間と会ったり、たまに気持ちい良い日に散歩する時間で休み休み人生の苦しみをごまかしてる。←これって結局現実逃避なんだよね。」というものだ。

たしかにわからなくはない。

僕はまだ社会に出て働き出してもいないような青二才なのですが、就活で絶望してみたり、一応良い大学入ってみても終わらないレースじゃないか、とガッカリしてみたりすることはそこそこ実感する。良いニュースもないし。

そうすると、今まさに、余計に人生が苦しみの螺旋の如く感じられて、うっかり上記の人生論を呑み込むところだった。

ただ、金と責任感を軸にした苦しみと、気持ちいい時間、どっちも現実なんじゃないのか。

 

 

けだし、人間各々、イマジネーションによって自分自身の天国と地獄を創り出している。

ただこれらは大体において曖昧なことが多く、天国でいうと、僕もなんとなく、文京区でニコニコとコーヒー飲んでるお爺さんとか、小洒落た住宅街の夕方とか、そういうイメージを夢想している。

地獄像は、例えば索漠感のある街でパチンコしか喜びがない、とか、たまにドキュメンタリー化してるシングルマザーの貧困家庭、のような「パチンコ」「アル中」「生活保護」要素的な何かである。

これらの地獄像を自分がいつの間に育ててきたのかははっきりしないが、多分、学校教育や家庭環境、自分の行動と思考の選択の積み重ねで、自己肯定の気負いと裏表に作ってきたものだろうと思う。

つまり、地獄像が、自己肯定に裏付けられているから厄介なのである。小学校や中学校時代、アホ面こいて遊んでいた連中の行く末を「地獄」と認定した過去がどこかであったはずである。

「俺はコイツらと違って、努力して勝ち組な人生を生きていくぜ」と努力した自負とともに、似たような努力家集団のコミュニティへステップを重ねていくもの、気づけばいつの間にか自分が育ててきた地獄像に追われて泣きながら走っている。

どこかでスパイラルの転換が起きれば良いのだが、それが起きぬまま地獄じゃない生活の維持のために必死に走っている人生に近しくなるってこともあるだろうな、と思う。

その地獄が、本当に地獄なのか、いま一度自分でも確かめてみたいと思っている。あと逃げる人生・こなす人生はもうやめたいね。

 

加えて、気になる。

世の中の「まっとうな道」を着実に歩んでいる大人たちが、「俺は今こうやって幸せなんだ」と世の中に対して叫んでいるのを僕は聞いたことがない。

「ちゃんと勉強しないと後々困るよ」と言っていた学校の先生たちは、それに付け足して「現に勉強した私たちはいま幸せだ」とまでは確か言わなかった。

 

苦しい時間・苦しみを忘れてる時間のどちらも現実だと思う。自分軸が「苦しみから逃げる」ことあるのか、「楽しみを追う」ことにあるのかで「現実逃避」の位置づけも変わるんじゃないか。そう信じたい。